高橋伸夫(2010)『組織力: 宿す、紡ぐ、磨く、繋ぐ』筑摩書房. (ちくま新書 842)

まえがき (抜粋)

 おじさんたちは、何も仕事をしていないようなときでも、ただボーッとしているわけではない。少なくとも私は、ずーっと若い人のことを見ている。査定や評価をしなくてはならないからとか、そんな理由で見ているのではない。だから彼らの目先の成果や業績を見ているわけではない。それよりも、どんな仕事が得意なのか、どんな仕事が苦手なのか、性格的に明るいのか暗いのか、几帳面なのか大雑把なのか……。とにかく、ありとあらゆることを見ている。直接の部下や後輩だけではない。目に入って気になる人はずっとウォッチしている。それは自分のためなのだ。 私自身は凡庸な人間だが、たとえ優秀で、どんな仕事でも誰よりも速くこなせるような人間であったとしても、所詮、限られた時間内に一人でできる仕事の大きさには限りがある。そんなことは当たり前だろう。しかし、もし自分に大きな仕事が降ってきたとき、どんなメンバーでチームを組めば、その仕事をこなせるのか。その顔ぶれのアイデアさえ湧けば、私はどんな大きな仕事でも受けられる。だから、いつも若い人を見ているのだ。

 これは、以前、私のゼミで、学生相手に某大企業の部長さんがもらした本音トークの一部である。少なくとも私が見る限り、凡庸どころかエリート街道まっしぐらといった人物である。まさに適材適所のチーム・メンバーのアイデアが湧く人と、そうではない人とでは、任せられる仕事の大きさに差がついてくるということを体現しているのだろう。

 一般的に、チームあるいは組織で仕事をして、うまくいかなかったとき、その原因を突き詰めていけば、特定の人物の特定の失敗に突き当たるはずである。しかし、そんなことでは何の解決にならないこともご承知の通り。そもそも、誰かのせいにして責任を取らせることが、組織としての再発防止につながるのかどうかも、よ〜く考えてみる必要がある。

 確かに、一般に、仕事のできるハイスペックな社員ばかりを揃えた会社だったら、随分と経営者や管理者の苦労は軽減されるだろうなとは容易に想像される。だからこそ、そんな「優秀な」社員を揃えたり、育てたりすることは重要なことなのだ。ただし、これはあくまでも一般論……である。それだけで大丈夫なのか? 仮に経営者や管理者が無能で、何もしなくても、本当にうまくいくのか? 何か本質的なものを見落としていないのか? では、その本質とは何か? おそらく、「経営」の本質とは、あるいは「マネジメント」の本質とは、一人一人ではできないような大きな仕事を皆でこなし、一人一人では突破できないような難関を皆でなんとか切り抜けることだろう。それが「組織力」である。

 このチームだったら、この組織だったら、このくらいの大きさの仕事ならこなせるし、このくらいの難関でもなんとか切り抜けられる……という感覚、この皆で ― つまり組織で ― こなしたり切り抜けたりするイメージと感覚を、リーダーはもちろん、組織の個々のメンバーも共有するために、日々の小さな成功体験・失敗体験の積み重ねが必要になってくる。だからこそ、仕事もできない新入社員の頃から色々やらせてみるのだ。たとえば、お花見の責任者だとか合コンの幹事だとか……。はっきり言ってしまえば、どうでもいいような「仕事」である。しかし、それを任された若い人は、そんな「仕事」を馬鹿にしてはいけない。なぜなら「合コンの仕切りひとつもまともにできない奴が、大きな仕事を仕切れるわけがない」からである。この某総合商社のおじさんのつぶやきはもっともなのだ。失敗しても、会社にとって痛くもかゆくもないような、こんなどうでもいいような「仕事」を若い人に任せてみながら、おじさん(おばさん)たちは、じーっと見ている。そこに「組織力」構築の最初の一歩がある。


目次

第1章 組織力を宿す: 組織の合理性
第2章 組織力を紡ぐ: 仕事を共にする
第3章 組織力を磨く: 経営的スケール観
第4章 組織力を繋ぐ: あなたの仕事
付 章 組織化の社会心理学

あとがき (抜粋)

 「組織能力って何?」

 以前、同僚から問われたこの質問に対する私なりの答が本書である。実は、経営学の分野には、それこそ世界中で、様々な組織能力に関する研究が存在している。しかし、組織能力とはそもそも一体何なのか。素朴にそう問われたとき、それに対して経営組織論の研究者が真正面から答えた例を私は知らない。組織能力と呼ぶべきものが、おそらくは満たしているであろう条件については、たとえば次のような文章の記述が、もっとも正確なものの一つである。

「組織能力は企業によって異なる個々の企業に特有な能力である。(中略) 組織能力は文字どおり組織の属性であり、組織に属する個人が持つ才能は組織能力とはみなされない。組織能力は個人能力の束ではあるが、それはその組織だからこそ身についた個人の能力が調整された体系である。」(藤本隆宏・天野倫文・新宅純二郎(2009)「ものづくりの国際経営論」新宅純二郎・天野倫文編『ものづくりの国際経営戦略―アジアの産業地理学―』有斐閣(pp.3-27), p.9)

 既に本書を読み終えた読者にとっては、この文章の所々に、ぴんと来るものがあるのではないかと密かに期待するが、文章自体は何やら禅問答のようでもあり……。そこで私は、組織能力からは一旦離れて、まずは「組織力」について、具体的に、かつ経営組織論の理論にできるだけ寄り添うように考察してみることにした。それをまとめたものが本書である。すなわち、

 組織力とは、人々の集まりが組織であるために必要な力である。本書で述べてきたように、組織力を宿し、紡ぎ、磨き、繋ぐことで、人々は、はじめて組織であり続けることができる。そして、もし組織であり続けることで、何らかの意味で望ましいものが組織から生み出されるならば、それは組織力の表れである。

 この段落の冒頭の「組織力」を「ウチの組織力」、段落最後の「組織力の表れ」を「オモテの組織力」と呼ぶことにしよう。実は、日本語の「組織力」は、人々を一つのまとまりに組織する能力(=ウチの組織力)と、組織としてまとまることで発揮されるより大きな力(=オモテの組織力)という二つの意味をもっている。つまり、日本語の「組織力」は、文字どおり、組織の表に表れている「オモテの組織力」とそれを組織の内で支える「ウチの組織力」という組織力の両面を指している絶妙な概念なのである。

 この日本語の「組織力」にこそ、組織能力とは何かについて答えるヒントが隠されている。すなわち、組織能力とは、一般に「オモテの組織力」を指して用いられる用語なのだが、「組織能力とは何か」と素朴に問うとき、それは表に表れている「オモテの組織力」の定義や条件を訊ねているのではなく、本当は「ウチの組織力」がどうなっているのかの説明を求めているのである。ここが実に面白い。しかし難問たる原因でもあった。そこで本書では、「ウチの組織力」がどうなっているのかを、組織力を宿し、紡ぎ、磨き、繋ぐプロセスに再構成して説明してみせたのである。 それが、組織能力とは何かという問いに対する答として納得してもらえるものになっているかどうか。私自身、1冊の本として読み直してみて、それなりに自信はあるが、最終的には読者の反応を待つしかない。

 基本的なアイデアを着想してから1冊の本の形になるまで、2年もかかってしまった。3度目の春を迎えて、ようやく脱稿することができたが、毎春、学校を卒業して、社会に巣立って行く若者を見送りながら、彼らに対するエールも込めて、本書の原稿は何度となく書き直されてもきた。 誠に勝手ながら、世の中のおじさん、おばさんたちを代表して、若者にこれだけは口に出して伝えておきたい。

 私たちは、努力している若者が好きだ。人には見えていないような陰の部分でも手を抜かず、一生懸命にやっている若者が大好きだ。もう少し要領よくできないものかと、いつもハラハラしているが、たとえ、すぐに結果は出せなくても、私たちは、君たちのする事をずっと見守っている。だから、いつか、君たちの力を本当に必要とする日がきたとき、私たちは迷わず君たちを選ぶだろう。そして、君たちと仕事を共にできることを心から誇りに思うはずだ。これは偉そうに、上から目線で言っているわけじゃない。君たちのファンとして言っているんだ。

 経営学といえばすぐに連想する「会社」ではなく、「組織」を念頭に組織力を説いたのには、私なりの意図がある。それは、組織力を宿した若者たちは、たとえ会社の寿命が尽きようとも、その会社の寿命を乗り越えて、生き延びていくはずだと私が考えているからである。それが組織力を繋ぐということの本当の意味でもある。巨大なグローバル・カンパニーも、見上げるような立派な本社ビルも、所詮、入れ物・乗り物に過ぎない。今ある会社の寿命の向こうも見据えて、組織力を宿した人々をこそ本当に守り育てていくべきなのである。普段、テキトーでいい加減な私のような人間にそう思わせてくれる力。それこそが究極の「組織力」なのだと私は思う。


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