高橋伸夫 (2013)『殻: 脱じり貧の経営』ミネルヴァ書房.

プロローグ

 「じり貧」。

 「じり貧」とは「じりじりと少しずつ貧乏または欠乏の状態になること」(『広辞苑』第6版)。なにやら昨今の日本経済を象徴しているかのような表現である。思えば、最初の頃は強みがあって成功した事業のはずだったのに、いつのまにか、じり貧に陥っていた……。そんなお話をいくつか。

【販売店網】
 A社のa事業部は、A社の主力製品aのみを扱っている。かつてA社は、製品aの導入期・成長期に、競合他社との間で代理店獲得競争を繰り広げ、なんとか販売店網の確立に成功、競争に生き残ったという歴史があった。それ以来、今日に至るまで、a事業部はA社の収益の柱であり続けてきた。
 ところが、a事業部が特化している製品aの属する市場は、既に成熟期、衰退期に入り、市場は縮小傾向にある。おまけに成長期に急拡大させた代理店の店主たちも、いまや老齢化が進み、そのほとんどには後継者もいないので、近年、代理店数は自然減を続けている。市場全体が縮小傾向の中で、なんとかマーケット・シェアは維持しているものの、売上高は緩やかに減少を続けていた。しかし、何か手を打とうにも、a事業部は「事業部」とは名ばかりで、実際には、支店に配置した人員で各地の代理店の管理をしているだけ。経営効率化のためにと、とっくの昔に製造部門を手放し、いまや製品aの製造はおろか、商品企画をする人員すらいなかった。それでも販売店網さえ管理していれば、少ない人員で安定的に利益を稼ぎ出すa事業部は、収益が不安定な他の事業部に比べれば、じり貧とはいえ、A社にとって依然として重要な事業部には違いなかった。それに、製品aの品質に対する、根拠のない絶対的な自信……。

【親会社本体の営業力】
 β社は、傘下のβグループが拡大をし始めた頃、どんどん増えていく子会社群に共通する経営サービスbを、各社がそれぞれもつのは非効率だと考えた。そこで、経営サービスbを担当するβ社内の部隊をβ社から分社化してB社を設立し、βグループ各社の経営サービスbをB社に担当させることにした。この経営サービスb自体はβグループ内に限らず、βグループ外の企業にも提供可能なもので、実際、設立当初には引き合いもあった。しかしB社の営業はいまだにβ社本体に丸投げの状態である。確かに、β社本体に丸投げしていた方が、営業費もかからないし、これまでは、それで安定的な売上と利益率を維持できていた。
 しかしB社がβ社より分離してから時間がたち、かつてβ社から移ってきた優秀な人材も、いまやみんな定年退職していなくなってしまっていた。分社後に入社してきたB社のプロパー社員は、優秀ではないとはいわないが、βグループ各社から見れば、どうしても小粒に見えてしまうのだった。また、β社本体に営業を丸投げして頼り切っているので、B社内は仕事が降ってくる先に合わせて、つまりはβ社の各事業部に対応させて、典型的な縦割りの部門構成になっており、大きな会社でもないのに、B社の部門間には横の連携というものがほとんどなかった。その行過ぎた縦割りのせいで、B社内部での相互牽制が効かない状況が常態化し、内部統制上の問題が表面化してしまった。このことをきっかけに、B社から他へ委託先を変える会社も現れ始め、そのせいでB社はさらにβ社本体にしがみつくという悪循環に陥っていた。近年、βグループの成長に、かげりが見え始め、業績はじり貧傾向にあるが、β社本体に営業を丸投げしている限り、つぶれる心配はない……のだが。

【好立地の不動産】
 C社は、たまたま隣接地に大手の大型ショッピング・センターが進出してきたことをきっかけに、地主の息子が社長となって起業し、そこに店舗を建てて営業を始めた会社である。社長には、特に経験やノウハウがあったわけではないが、人が集まる場所での商売は、売上高も利益も安定していた。おかげで、社長は、経営の苦労を知ることもなく、趣味に打ち込めるほどの時間的な余裕もあった。
 ところが、少し離れた場所に別の大手の大型ショッピング・センターが進出してくると、さすがに客足が落ち始めた。社長が店舗を増やすことを考え始めた矢先、同業他社が経営危機に陥っていることを知り、そこの店舗を買い取ることにした。社員さえやる気になればなんとかなるという知人の経営コンサルタントの助言を信じ、にわかに熱血社長と化して、社員を鼓舞し続けた。しかし、立地条件以外に、これといって何の強味もなかったC社が、立地条件の悪いところにも店舗をもってしまったことで、業績はさらに悪化した。もともとC社の土地・建物は父親の所有で、C社は賃借料を支払って借りていた。今回も、土地・建物は、父親が資金を出して買ってくれていた。そこで社長は父親に泣きついて、地代家賃を安くしてもらい、C社はなんとか黒字を確保できることになった。しかし、そもそも父親は大家として、立地条件の悪い店舗のリニューアルに金をかけることには反対で、ますます店舗の老朽化が進む中、さらに客足が遠のきつつあった。

【特許】
 D社は、社長が技術者出身で、特許をとったユニークな装置で、その分野では世界的に有名になった会社である。ニッチ市場ではあったが、あまり宣伝などしなくても、顧客側から問い合わせがきた。ただし、より高機能の装置を作るには、どうしても他社の特許を使用する必要があり、そうなると、当然のことながら、他社との間で特許のクロス・ライセンス契約(互いに特許の使用を認め合う契約)を結ばなくてはならなかった。ところが、そんな契約を結んで特許の使用を許諾してしまっては、せっかく今、特許で参入を防いで独占しているのに、他社の参入を招いてしまうことになる。そこでD社は、特許による独占を維持するために、高機能化路線はとらず、その代わり、納入先のニーズに合わせて徹底的にカスタマイズすることで対応することにした。そのおかげで、D社は顧客満足度の高い会社としても有名になり、新規の顧客も増えた。特許による独占のおかげで高利益率も維持することができた。
 こうなると、いつしか社長は、ニッチ市場でソリューション・ビジネスを展開していることこそがD社の強みだと考えるようになってしまった。そして、研究開発そっちのけで、これからは、お客さんを待っているだけではだめだと、顧客第一主義を掲げ、ソリューション・ビジネスを積極的に売り込んだのである。しかし、競争相手の会社も指をくわえて眺めていたわけではない。D社の特許を回避する国内他社製の類似装置が、市場の一部に食い込んできた。それだけではない。欧米製のより高機能の装置が、国内市場にも投入され始めたのである。こうして、D社のシェアと売上はじり貧に陥っていった。

【フランチャイズ契約】
 E社は、ある地域に限定して、あるフランチャイズ・チェーンの店舗を展開していた。出店当時は目新しい業態で、一般の消費者にはなじみの薄い分野だったが、比較的狭い地域に集中的に出店することで、広告宣伝費を節約し、スキルを必要とする人材も節約し、経営効率は良かった。パート、アルバイトも含めて店員の士気も高く、その行き届いたサービスが評判になり、業績は好調だった。
 ただし、フランチャイズ本部との契約により、同じ商号、商標を使って他の地域に出店することはできないことになっていた。この契約のおかげで、E社自身も、その地域の中では守られ、利益も十分に出していたのだが、この地域の中では、もはや飽和状態で、これ以上成長することは望めなかった。そんな中、近年になって、E社だけでも飽和状態の同地域に、別系統のチェーンやE社を辞めて独立した人が、安さを売りにして出店を始めた。こうしてE社の業績は、じり貧傾向に陥ることになる。

 このA社〜E社の話をセミナーなどで紹介すると、すぐに出席者から質問が出る。
「このA社(〜E社)って、ひょっとして○○社のことですか?」
まぁ、出てくるわ出てくるわ、その○○社のバリエーションの多さには驚かされる。業種も規模も実に雑多。中には私が名前を聞いたこともないようなローカルな(質問者のご近所の)会社名まで出てくるのである。

 A社〜E社いずれの例でも、【 】で表示したように、企業が幼弱な時期には企業を保護してくれていたものがあった。それを本書では「殻」と呼ぶことになるのだが、殻は確かに色々なものから身を守るのに役立つ。しかし、その殻にしがみついて経営していると、いずれは、「じり貧」状態に陥る……そんな風に単純化して考えると、業種や規模の違いに多少目をつぶれば、似たような会社はいくらでも見つけられるということなのだろう。

 そうやって、どこの会社か詮索しながら会場が盛り上がってしまうと言い出しにくくなるのだが、実は、このA社〜E社の例は、私の創作なのである。しかし、なかなか信じてもらえない。中には、「創作だとか言っているけど、本当はうちの会社のことですよね」などと迫ってくる人までいる始末である。「申し訳ないですが、私はそんな会社聞いたこともありません」とは言いにくいし、本当に困ってしまう。実際、私がA社〜E社の例を創作した際、参考にした似たような会社は山ほどあり、多くの会社の共通項のようなものを抽出して、それにもっともらしくディテールを脚色するとこんな感じになった……というのが正直なところである。要するに、こんな例は、身の回りにいくらでもある。日本中が「じり貧」の会社で溢れているのだ。

 面白いもので、似たようなことは、1980年代前半、米国の鉄鋼、自動車などの産業が苦境に立たされたときにも指摘されていた(Tichy & Devanna, 1986)。その指摘は、まずは「ゆでガエル現象」(boiled frog phenomenon)の解説から始まる。この現象は、もともとカエルが主役の古典的な生理学的反応実験のアナロジーで、カエルを突然熱湯に入れると、カエルはびっくりしてすぐに飛び出すが、カエルを冷水の鍋の中に入れて、ゆっくりと熱を加えていけば、温度の変化がゆっくりなので、カエルは熱湯になっていっていることに気づかず、飛び出すことなく、鍋の中でゆで上がって死んでしまうという現象を指している。その上で、当時、「じり貧」状態に陥っていた米国の鉄鋼、自動車などの産業は、まさにこの現象の犠牲者であり、この現象は「文化の繭(まゆ)」(cultural cocoon)ができるために温度変化に気がつきにくくなることで起こるのだと説明したのである 。「じり貧」状態に陥る会社を観察してみると、何やら繭のようなものがありそうだ、というティシーたちの指摘は、本書の殻に通じるものがあって実に興味深い。(この「文化の繭」は、魅力的なアイデアだと思うが、ゆでガエル現象の説明としては正しくない。ゆでガエル現象自体は、体感温度仮説で説明した方が自然である。)

 そして、ここで強調しておきたい重要なことは、「じり貧」の会社(創作とはいえ、A社〜E社のようなケース)でも、赤字ですぐに倒産、というような状態にはなっていないということなのである。なぜそうなるのか? 読者の中には、C社の不動産やD社の特許などから、レント(rent)を連想した人も多いだろう。レントはもともと地代の意味で、土地利用者が土地所有者に対して支払う利用料のことであるが、国民経済計算の所得支出勘定における賃貸料(rent)には、土地の純賃貸料だけではなく、特許権・著作権等の使用料も含まれていて、まさにC社やD社のケースは、そのものズバリなのである。さらに経営戦略論では、レントの概念はもっと広く、簡単に言ってしまえば標準以上の利益率のことなので(高橋・新宅, 2002)、不動産や特許に限らず、A社〜E社には【 】内で示したようなレントの源泉があり、そのおかげで「赤字ですぐに倒産」という事態が回避されていると考えることもできる。

 つまり経営戦略論的な言い方をすれば、殻はレントの源泉となっていることもありそうだ……ということになる。少なくとも企業の幼弱期には、おそらく殻は、レントに限らず、資源の獲得にも役に立っているのだろう。だからこそ、しがみつくわけだ。時間がたって、そのありがたいご利益が薄れてきたとはいえ、そのおかげで、なんとか収支は黒字……と保護されているケースも多いのではないか。だから、余計、始末に負えないともいえる。なぜなら、仮に赤字に転落していたら、事業をやめるとか売却するとか合理化するとかせざるをえなくなるのに、殻は今でも会社の収益の役に立ち、細々ながらでも黒字を出し続けているので、それができないからである。しかし、その殻にしがみついている限り、これ以上、成長の見込みがないことは、経営者も従業員もわかりきっており、じりじりと少しずつ貧乏の状態になっていくことも目に見えている。まさに「じり貧」なのである。

 実は、こんな始末に負えない状態に陥るのは、古い会社ばかりとは限らない。たとえば、クライアント(お得意さん)をつかまえて(これが殻になる)、起業してはみたものの、あまりにニッチすぎて、実のところ成長する見込みはほとんどなく、かといって、そこそこ売上があって、現有の少人数の従業員を食わせていく程度には儲かっている小さな会社の経営者は、本当にたくさんいる。少なくとも、私が会ったことのある「ベンチャー」の経営者は、ごく一部を除いて、みんなそうだった。ベンチャー企業の経営者を気取っていたいし(本当は、成長する見込みのない会社はベンチャーとは言わないのだが)、従業員の生活にも責任があるので、その会社をつぶすにつぶせない状況に陥っていることが多いのである。これも本質的には同じである。だから、会社を買ってくれそうなところが見つかると、経営者は喜んで売却してしまう。

 なんだか経営学にまつわる色々なことが殻にかかわってきそうだ。ただし、殻の概念から導き出される結論は、従来の経営学とは異なり、かなり斬新である。「本業がじり貧」とくれば、新規事業開発、多角化、……と続くのが、これまでの経営学、経営戦略論の常識だが、殻の経営学では、そんな陳腐な結論は出てこない。では「殻」とは、正確には一体どんな概念なのか? 最初だけ、ちょっと硬めの話にはなるが、そんなところから議論を始めることにしよう。


目次

第1章 鉄の檻から殻へ
第2章 T型フォードの誕生
第3章 大量生産と工程イノベーションに突っ走る
第4章 しがみつかれて殻になったT型フォード
第5章 世界初の汎用デジタル電子計算機ENIAC
第6章 殻として機能しだしたENIAC
第7章 化石化するコンピュータ・デザイン
第8章 化石化以外の道: 予言者・古き理想の復活
終 章 背負うべきは殻ではなく自分の選択
エピローグ


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