ゼネラル・モーターズ(General Motors Company; GM)の事業部制

 持株会社形態から事業部制へと再編したゼネラル・モーターズ(General Motors Company; GM)のケースをチャンドラー(Chandler, 1962, ch.3)に沿って整理して、紹介しておこう【高橋(2016) 第7章から一部を抜粋・加筆して解説】

GMの誕生

 GMの創立者であるデュラント(William Crapo Durant; 1861-1947)は1885年頃、米国ミシガン州フリントで保険の外交員をやっていた。当時24歳だったデュラントは50ドルで2輪馬車製造の特許を買い、若い金物のセールスマンのドート(Josiah Dallas Dort; 1861-1925)と組んで、1886年にデュラント・ドート馬車会社(Durant-Dort Carriage Company)を設立した。当初、実際の2輪馬車製造は現地の製造業者に下請けで出したが、全国各地にディーラーと元売り業者を選定し、都市では専属のディーラー組織を作るなどして二人は販売努力を積み重ねたので、荷馬車と乗用馬車の需要は増加し、自社の組立工場の建設に踏み切ることになる。販売から製造まで遡ったわけである。しかし、生産が増えてくると部品の供給問題が出て来たので、二人はボディー、車輪などを製造する専門の下請工場の設立を資金提供で奨励し、それだけでなく、自らもいくつか下請工場を造った。20世紀になる頃には、各種の軽馬車、4輪馬車、バネ付き4輪馬車を製造するようになり、大量・一貫生産は成功した。こうしてデュラントは40歳にならないうちに百万長者になったが、自分では製造の細かな点には興味がなかったので、現地の有能な人達に馬車会社をまかせて、自分は個人事務所をニューヨークに移してしまった。

 そのころ米国では、いろいろな小企業が自動車を作っており、馬車事業にとっては脅威であった。1904年にフリントに小工場をもっていたビュイック自動車会社が倒産したのを機に、デュラントはこの会社を買い取る。1904年12月にフリントに戻ったデュラントは、馬車会社の工場と人員を利用しながら、フリントと近くのジャクソンに大きな自動車組立工場を建設した。それと同時に、馬車事業と同じ流儀で全国にまたがる元売り・ディーラー組織を作り上げるのに力を入れた。売上台数が増えてくると、フリントにある馬車会社のときからの部品工場を、馬車用部品から自動車用部品の製造に転換させただけではなく、さらにボストンやニューヨークからも部品工場をフリントに移転させた。ビュイックの生産台数は、1904年には31台にすぎなかったが、1908年には8,487台となり、米国第1位の自動車メーカーとなった。1908年はT型フォードの生産開始の年で、フォードは6,181台で第2位、キャディラックは2,380台で第3位であった。

 ビュイックの急速な成長で、デュラントはビュイックの経営をかつての馬車工場の工場長ナッシュ(Charles W. Nash)にまかせ、自分はもっと大きな自動車会社の設立計画に専念し、1908年9月8日に持株会社ゼネラル・モーターズ(General Motors Company; GM)を設立した。そしてその年の暮れまでには、ビュイック、オールズ・モーター製作所、そしてフリントのボディー・メーカーの株式を買い取った。続く18ヶ月に、主としてGM株と被買収会社の株式の交換によって、キャディラックなど自動車会社8社、トラック会社3社、部品・アクセサリー会社10社の株式のそれぞれ全部もしくは相当額を支配するようになった。

GMの成長戦略のつまずき

 デュラントはこうして企業合同と垂直的統合を繰り返しておきながら、企業合同や垂直的統合のもつ潜在的な経済効果を達成することには興味がなかった。それどころか、生産調整に必要な需給に関する情報を収集しようともしなかったし、需要の一時的な減少に対する備えも現金の準備すらもしなかった。1908年から1910年の間に売上高は2,900万ドル強から4,900万ドルへと倍増したが、その大部分はビュイックの売上げだったのである。その結果、1910年のちょっとした景気後退で、ビュイックの売上げが生産計画量より下回ると、一時的に部品業者や労働者に支払う資金が不足することになる。その上、急成長の継続を見込んだビュイックなどの在庫は自動車デザインの変更で陳腐化してしまった。この事態を乗り切るために、デュラントは銀行団から1,500万ドルを借り入れたが、それと引き換えにデュラントは1910年11月10日、5年間の議決権信託協定に調印することになり、これによってデュラントは大株主でありながらGMの経営に対する発言権を失う羽目になった。

 銀行団は、外への拡張よりも内部組織に強い関心を持った。まずGM傘下の多くの子会社を整理統合して、小さな自動車製造工場は大工場に組み入れ、トラック会社3社を合同させ、いくつかの部品・アクセサリー工場をひとまとめにした。銀行団の代表であるストーロー(James J. Storrow; 1864-1926) GM財務委員会議長は本社機構をニューヨークからデトロイトに移し、さらにナッシュをフリントからデトロイトに呼んで社長にした。ストーローは主な傘下会社の社長で構成する幹部連絡会議を設立し、本社の全社的な管理を補佐する資材部、会計部、生産部の三つの常設部門を設置するとともに、傘下会社間の資材連絡会議を設けた。またデトロイトに大規模な技術研究所を建設した。しかし、自動車製造の子会社の幹部たちは本社の意見や命令を聞くような人達ではなく、当時の一般的な持株会社の本社と同様、ほとんど見るべき力をもってはいなかった。

 そして、デュポン家から多額の資金援助を受け、また自動車メーカー、シボレーを買収したデュラントが、1916年8月に社長に就任してGMに復帰する。これで組織づくりは忘れ去られ、デュラントはストーローが作った本社資材部や幹部連絡会議、資材連絡会議を廃止し、個人事務所と会社の小規模な財務部門をまたニューヨークに移してしまった。1915年〜1918年のGMの本社はデュラントと数名の個人的アシスタントだけであったという。彼は依然として自動車に対する膨大な需要を信じており、自動車の生産量増加を目的として既存の自動車工場の生産台数を増加し、さらにこれに必要な部品、アクセサリー、原材料の供給を増大することに躍起となって、1916年〜1920年に会社を買収し続けた。

 1916年、デュラントは持株会社ユナイテッド・モーターズ(United Motors Corporation)を設立して、大々的な拡張計画に乗り出し、大手の部品会社を買収したが、その中のボール・ベアリングの大手メーカー、ハイアット・ローラー・ベアリングの所有者であり経営者であったスローン(Alfred P. Sloan, Jr.; 1875-1966)をデュラントは新設のユナイテッド・モーターズの社長に任命した。1917年夏にデュラントはGMを持株会社から事業会社に法律上変更して、各種の自動車、アクセサリー、部品などの傘下会社はGMの事業所となった。翌1918年にはシボレー、ユナイテッド・モーターズ、GMカナダがGMの事業所となった。米国が第一次世界大戦に参戦すると、軍の注文、工場転換命令、工場優先使用、資材入手難などで自動車生産の維持が難しくなったので、トラクターの製造を始め、電気冷蔵庫のメーカーを買収した。第一次世界大戦が終わると、デュポン家とデュポン社がGMに5,000万ドル以上も資本を提供したので、1919年は大拡張の年となり、旧設備は拡張され、組立工場が全国各地に建設され、多数の部品会社の株式を買収した。しかし、この拡張期を通して、デュラントは依然として組織づくりに何の関心も示さなかったのである。

 1920年の初めはまだ戦争の余韻で景気がよく、新車は引き続き品薄であった。この年、GMは工場と設備に7,900万ドルを投じた。同時に各事業所長は、インフレや物資不足で価格が上がらないうちにと、資材を確保し、在庫を積み増していった。こうして各事業所の資金需要は急増し、3月にはGMはさらに6,400万ドルつぎ込む必要が生まれたが、4月末までに在庫額は1億6,797万ドルに達していた。そこで、各事業所長に資材購入を抑えるよう警告が出され、同時に1920年8月から翌年8月までの乗用車生産計画が削減されたものの、各事業所長はそれぞれの事業所の資金運用に全権をもっており、資材、設備の発注から資金の借り入れまで勝手にできたので、まだ材料を買い続けた。しかし、完成車の需要は急激に減少し続け、自動車市場はすでに崩壊し、ライバルのフォードは9月21日に2〜3割の価格引き下げを行っていたほどだった(第2章の図2を参照のこと)。10月末には在庫額は2億1,000万ドルに迫り、事業所長の中には納入請求書や賃金など当面の支払いにも事欠く者が続出した。11月の販売台数は夏の初めの4分の1の1万3,000台を下回り、さらに翌年1月には生産は6,151台という低水準に落ち込むのである。不良在庫は8,400万ドルにのぼったという。

 この危機でGMの株価は急落、デュラントは信用買いでGM株の買い支えをしたために、金詰まりになり、ついに1920年11月20日に社長を辞任する。その10日後、ピエール・デュポン(Pierre du Pont; 1870-1954)が社長に就任する。そして、まず手始めにスローンのGMの組織改革案を承認すると、12月29日の取締役会での承認後、ただちにこれを実施に移す。このとき、スローンはGMの副社長になっている。スローンの組織改革案はこの1920年の危機の数ヶ月前に作られていたが、デュラントは提案を検討してはみたものの、組織上の細かいことは重要には思われなかったので、提案の実施を怠っていたのである。

GMの組織づくり

 スローンの組織改革案には彼のGMでの経験が生きているといわれる。スローンは自分の会社ハイアット・ローラー・ベアリングをデュラントに売り渡して、ユナイテッド・モーターズの社長に就任しているが、ハイアット・ローラー・ベアリングはユナイテッド・モーターズの子会社になったので、実際にはスローンはそれまでの自分の会社を包摂するより大きな会社の経営者になったことになる。そこでスローンは会計手続を統一して、統計的に比較できるようにしたり、またいくつかの製造部門のために全国的に販売とサービスを行う会社ユナイテッド・モーターズ・サービスを設立したり、あるいは部品会社の買収をしたりと積極的に経営を行った。特にユナイテッド・モーターズ・サービスの設立は、これによって販売と製造の調整がよくなり、補修用部品の市場開拓とGMのディーラーへの部品・アクセサリーの供給を確保するなど、GMに対しても貴重な貢献をすることになる。スローンの形作ったユナイテッド・モーターズの管理事務所はその本社としての仕事をするようになっていた。こうしてスローンはユナイテッド・モーターズのために組織づくりをしたり、全社的な政策を立てたりしているうちに、今度はGM全体では機構やシステムが欠如していることが気になりだした。そしてGMの組織改革案である「組織研究」(Organization Study)を書き上げたのである。

 この「組織研究」は、(i)各現業部門の最高責任者の責任は制限されず、必要なあらゆる職能を揃え、イニシアティブを発揮できるようにして、各現業部門の自律性を保つという原則を前提とした上で、(ii)会社の活動を合理的に発展させ、適切に統制するにはある種の本部組織の機能が絶対に不可欠であるという「2原則」に基礎を置いたものである。具体的には、事業部長は社長の統制に従うが、従来通り担当事業部の全政策を決定することとし、各事業部は自動車、アクセサリー、部品、雑製品の四つのグループのどれかに所属させて、グループ担当の本社幹部を置いた。本部組織は本社幹部の他に専門スタッフを置き、これで多数の現業事業部を調整し、評価し、目標と政策を策定するような総合本社をうまく作り出した。

 1921年はGMの組織づくりの年となり、雑多な自動車関係の事業の寄せ集めにすぎなかったGMは一つのまとまった組織へと変態を遂げ始める。1921年の初めには、デュラントの戦略であった垂直的統合をこれ以上進めないことを決めている。また若い時から自動車会社の経営者としてやって来ていたオールズ、オークランド、キャディラック、シボレーの事業部長は更迭された。

 1921年末までにはスローン案の大部分は実施されたが、さらに機構の整備が続けられ、大きなところでは、各事業部の業務範囲を明確にして互いに無駄なく補えるように、まず市場をいくつかの層に分け、各事業部の作る自動車をそれぞれの層に一定価格で供給させることにし、シボレー、オールズ、オークランド、ビュイック、キャディラックという順に低価格車から最高級車まで製品系列を合理的に秩序付けた。このことで1923年までに、それまであった自動車事業部間での競争はかなり除かれ、技術、製造そして特に販売での調整が可能になった。さらに、シボレーとオールズの間の価格帯に大きな潜在市場があると考え、1925年にはポンティアックを出している。GMは「あらゆる財布(パース)にも目的(パーパス)にも合った車」(a car for every purse and purpose)を揃えるという目標に近づいていく。

 また、1920年危機の原因が過剰在庫であったことから、資材購入計画と生産計画を自動車市場の需要と結び付けるために4ヶ月先までの販売見通しを各事業部に出させて、総合本社がこの見通しを承認してはじめて各事業部が必要な資材を購入できることとした。さらに事業部間の取引制度の確立や全社統一的な会計制度の適用などを行い、1925年にはGMの組織が完成した。

 自動車市場でのGMのシェアは1924年には18.8%だったが、1927年には43.3%に上昇し、翌1928年のGMの利益は2億7,646万8千ドルに達した。自動車需要が頭打ちになり競争が激しくなってくると、GMはますます強さを発揮し、1929年の大恐慌で新車需要が急激に減ってもGMの利益にはほとんど影響しなかった。1940年にはシェアが47.5%になっている。このようにGMはうまくいっていたので、基本的な機構は比較的変化がなかったが、スローンは1923年5月に社長に就任して以来、1937年まで社長、1956年まで会長を勤め、この間、絶えず組織を調整し修正していたといわれる。つまり、組織を管理するのではなく、絶え間ない組織づくり、すなわち経営をしていたのである。


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