高橋伸夫 (2010)『ダメになる会社: 企業はなぜ転落するのか?』筑摩書房. (ちくま新書 875)

プロローグ (抜粋)

 行ってきましたよ。大手芸能事務所A社の株主総会に。実は東証一部上場企業なんですねぇ。会場に来た株主は1405名(人数はイベントのときに「株主賞」投票の関係で発表された)。イベントは全席指定なのに、なぜか総会は自由席。とにかく株主の年齢層が若いことと、特に若い女性の姿が多いことに驚きました。ここの事務所には、かっこいい男性アーティスト、俳優が数多く所属していますからねぇ。総会の会場で年配の男性は、本当にポツンポツンといる程度です。かえって目立つかも。そして私の隣に、すぐにそれと分かるヲタ2人組が座りました。座ったとたん例のネタです。2週続きのフライデー連発はさぞや打撃だったろうと思いきや、2人の会話は予想される第3弾について。へぇーそうなの? と聞き耳を立ててしまいましたが、どこでネタを仕入れてくるのやら。

 さて、定刻に始まった株主総会は、映像も使って事業内容や経営状態等をサラサラと約30分間説明。そして株主との質疑が約1時間。フロアから質問に立った株主は8名。み〜んな若〜い。が、経営内容に関する質問はなかなか鋭く、「そうそう、そこはちゃんと説明してもらわないと、この資料だけでは分からないよね」みたいな、まともな内容の質問をしていました。しかし、株主たちから思わず大きな拍手が起きたのは
「ファン・クラブに入っていてもライブのチケットがなかなか手に入らない。タダにしてとはいわないし、お金は払ってもいいのだから、株主対象のシークレット・ライブを企画してほしい」。
という株主からの要望。これには株主一同が賛同の拍手の嵐。それに対して社長は、会社としてのA社を見てくれみたいな意味不明な回答をしていましたが、それってどうなの? 企業価値がどうだらこうだらなんて、ここにいる株主は誰も求めていないのでは? たとえ株価が下がったって、ここにいる安定株主たちは、この事務所が「あのアーティスト」(これは株主によって異なるはず)のマネジメントをしてくれている限りは、誰も株を手放したりはしないのですよ。

 実際、2008年5月の某有名バンドの無期限バンド活動休止の発表と、同年9月のリーマン・ショックを経て、A社の株価は1年間で2,000円強から1,000円弱にまで半分以下に暴落したのに、またちゃんと、みんなこうして株主としてここに集まってきているではないですか。しかも、質問に立った株主は、誰一人として、株価が暴落したことに不満など言わなかったのですよ。(単元株は100株なので、ここにいる株主は最低でも100株を持っているから、10万円以上の含み損を抱えているのにねぇ。) 企業価値みたいな、高値で売り抜けることばかりを考えている連中が馬鹿の一つ覚えみたいに振りかざしている空虚な旗を社長が持ち出すようでは嘆かわしい。はっきり言って、配当だって、利益が出ているからといって記念配当なんかしてくれなくてもいいのですよ。(大株主の元会長は潤うかもしれないけど。)

 そんな金があるんだったら、「あのアーティスト」のプロモーションに予算をつけてやってよ。それで売れてくれた方が、株主だってうれしいし、将来のA社の利益にもつながるんだから。私の隣に座っていたヲタ2人の会話はまともだったな。
「A社の株をいつまで持っているの?」
「えっ? 僕は売るつもりは全然ないよ。ずっと応援しているから。君も、ずっと持っていなよ。年に1回のイベント(?)も楽しいし、少なくとも配当は銀行の利息よりはいいんだから」。
そうなんだよね。ずっと株をもっているんだったら、1株当たりの配当(=利益の一部を株主が受け取るもの)さえ維持してくれれば、株価が上がろうが下がろうが関係ないんだよね。しかもA社の場合、1株を1.2株にする株式分割が行なわれ、100株だと120株に増えたので、1株当たりの配当を維持してくれれば、単純に配当金額は1.2倍に増えるんですよ。まともな会社の株であれば、ずっと持っていると、植物の株を株分けするみたいに徐々に増えていくので、それも楽しみ。

 もっとも、総会後にA社の社員をつかまえて、まだ熱心に持論を説いている株主を見ていて思いました。本当は、ファンの言うことも株主の言うことも、一々聞く必要なんてないんだよね。この事務所から契約を切られたアーティストは、ここ数年でも何組もいて、ファンは感情的には受け入れがたいけど、契約を切られた理由も痛いほどよく分かっている。所属先を失って、しばらくは自前で活動していたアーティストもいるけれど、その苦労を見ていれば、事務所のマネジメント力がいかにすごかったのかもよく分かる。中学生の頃から契約していて、ずっと下積みで活動を続け、ブレークまで5年かかったアーティストがいた例を見ても、「人を見る目」はあるんでしょう。

 株主とかファンの言うことにいちいち振り回されずに、A社の社員には、プロとしての自信をもってやってほしい。なんだかんだいったって、結局は、株主もファンも、そしてアーティストも、A社のマネジメント能力の高さだとか「人を見る目」の確かさだとかみたいなものに懸けているわけだから。 ただし、企業価値だとか利益追求だとかを経営者や投資ファンドが声高に叫び始めたときに、「それは違うな」とガードする権利を超安定株主の一人として、ファンの一人として、もっていたいとは思った。あの総会の会場にいたほとんどの株主にとって良い会社(価値のある会社)とは、
「A社と契約できたんだ! 良かったね!」
「A社がマネジメントをしてくれているんなら大丈夫だね!」
とファンが思えるような会社のはず。あの会場にいた株主は、金儲けのために株主になったわけではない(? まあ、儲かったら儲かったでうれしいけど)。この会社の行為に賛同し……もう少し正確に言うと「あのアーティスト」をひっくるめた会社丸ごとを応援するために、株主になったのだ。経営者に、こうした「真の株主」の声に耳を傾けさせるには何が必要なのか? 色々と考えさせられた一日だった。

 本書の議論はこうして始まる。ただし、このA社は、本書のタイトル「ダメになる会社」の例ではない。株主総会を見る限り、むしろその逆だと思う。私はA社の株主総会が、あまりにも印象的だったので、その様子を面白おかしく、色々な会社の役員、管理職の人たちに、酒の肴として提供してみた。みなさん笑いながら私の話を聞いていたが、やがて真面目な顔になり、そして異口同音に
「それって、まともな株主、まともな株主総会ですよね」
「株式会社のあるべき姿かもしれない」
と感想を口にするのである。実は、私もそう思っていた。A社の株主でいることを心地良くさえ感じていたからである。そこには、われわれが忘れかけていた、会社の原点のようなものが見え隠れしているように思える。その原点に立ち返って、本書の議論を始めたい。


目次

第1章 託す仕組みとしての会社
第2章 託されし者、経営者
第3章 オーナー経営者から専門経営者へ
第4章 ガバナンス論の不毛
第5章 制度的同型化の果て
第6章 経営者を選ぶのは誰だ
第7章 託されし者の責務

エピローグ (抜粋)

 「真の株主」や従業員が、会社の経営を良き方向へと導きたいと願うのであれば、「託されし者の責務」をきちんと果たそうとする精神 ―「資本主義の精神」― を宿した人間を経営者に選ぶしか方法がない。みんなの夢や志、そして期待を託された者が、その責務を果たそうと一生懸命に努力する精神。それをなんと呼んだらいいのか? さんざん悩んだ挙句、ウェーバーを連想させるが、「資本主義の精神」しかないと思った。

 ただし、編集者の永田士郎さんからは、
「資本主義の精神を涵養する方法について、何か提言らしきことはできないのですか?」
という、これまた真っ当ではあるが難問を突きつけられてしまった。
「すべての人を対象にして一般的に涵養するのが難しいからこそ、資本主義の精神を宿した人間を経営者に選べと言っているのですよ」。
と答えていて、ふとあるエピソードを思い出した。難しいとはいっても、涵養するのが全く無理というわけでもなさそうだ。これは何も、現役の経営者だけに求められていることではない。われわれも、日々、ある種のトレーニングを受けているのである。そのとき私が思い出したエピソードとは、拙著『コア・テキスト 経営学入門』でも紹介した、普通のオジサンである私の友人のこんな話だった。

「夜にほろ酔い気分で街を歩いていると、狭い交差点で、何でこんな所に信号機があるわけ? というような所に信号があったりするわけよ。ほとんど車も走っていないし、右見て左見て安全を確認したら、別に赤信号でも渡っちゃうわけだよね。それで事故か何かあったって、要するにそんなの自己責任なんでしょってなもんだよ。でもね。そんな俺でも、信号をきちんと守ることがあるんだよね。それは子供たちが近くにいるときなんだよ。多分、塾帰りかなんかなんだろうけど、夜の街に子供たちがいるわけよ。その子供たちの前では、絶対に赤信号を渡らない。たとえ車が1台も通ってなくても、通りがシーンとしていても、青信号に変わるのを待つ。背筋がしゃんとするんだ。酔っ払っててもね。」(p.253)

 実は、つい先日、私も似たような経験をした。それは、大学を卒業して10年もたつゼミの教え子の結婚式に出席したときのことである。かなり印象に残る男子学生ではあったが、なにしろ、もう10年も前の卒業生である。スピーチのネタになりそうなことを記憶の糸をたどりながら、思い出し思い出ししながらテーブルに着くと、そこには当時の懐かしい顔、顔、顔が並んでいた。
「おおっ、みんな変わらないね……じゃないか。みんな偉そうになったね」。
さすがに卒業して10年もたつので、みんな一丁前に偉そうな大人の顔になっている。思わず、名刺交換をしてしまったりしたが、名刺の肩書きもそれなりに偉くなっている。結婚式が始まり、いよいよスピーチの時間になった。くだけた形式の結婚式ではあるのだが、まだイマイチ場の空気をつかみ切れていない。当惑する私の前に、新婦側の某先生がスピーチに立ち、噂にたがわずハチャメチャな話を繰り広げて、爆笑をさらっている。これはまずい。新婦側ですらこうなのだから、新郎側ではさらに上を行き、ウケを狙うべきか? いやいや、あの真面目そうなお父さんの顔を見ると、ここはまじめな話に終始すべきか? 行き当たりばったり……にはなったが、とりあえず失礼にならない程度に、新郎の懐かしいズッコケ話などをして多少の笑いをとり、ホッとして席に戻ると、地方に赴任中の一人が、自慢の地酒を持ち出し、同じテーブルの連中の空いているグラスに注ぎ出したではないか。持ち込みはまずいだろうと思ったが、
「いいじゃないですか、水と見分けつきませんよ」。
とかいいつつ、
「これも地域振興の一環です。自慢の地酒をとりあえず一口でも……」。
すかさず式場の係員が私の席の横にピタッと寄り添ってきた。そして耳元でこう囁いた。
「持ち込みは困ります」。
「いや、これは私のではないので……」。
「わかっております。しかし、ここは先生からピシッと言っていただかないと」。
そうか、今のスピーチで、私が先生だったってことは、ばれてしまっているわけね。こんなユルユルの結婚式でも、当り前のことだが最低限のルールは存在している。しかし、こんないい歳をした、しかも社会的地位もあるいい大人たちを相手にして、いまさら「先生」だからもないもんだろうに……とは思ったものの、不思議なもので、私は半ば反射的に座り直し、背筋をしゃんと伸ばしてこう言った。
「申し訳ありません。私が責任をもって、今すぐにやめさせます」。

 背筋がしゃんとする瞬間。「世俗そのもののただ中における聖潔な職業生活」とはよく言ったものだ。それこそが資本主義の精神を宿すための大切な営みなのだろうと私は思った。


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