Barnard, C. I. (1938). The functions of the executive. Cambridge, MA: Harvard University Press.
邦訳, C・I・バーナード(1968)『経営者の役割(新訳)』(山本安次郎, 田杉競, 飯野春樹 訳). ダイヤモンド社.

☆『経営者の役割』について☆  BizSciNet


 経営学の古典中の古典として知られるバーナードの『経営者の役割』では、例示もほとんどなく、抽象的な議論が展開される。ところが、バーナードはいわゆる学者ではなく、AT&T (アメリカ電話電信会社) の子会社として1927年に新設されたニュージャージー・ベル電話会社の初代社長だった人である。社長として約20年間、1948年まで在任していたが、そのちょうど中ごろの1938年に、この『経営者の役割』を出版している。彼はプロの研究者ではない。忙しい仕事の合間に (暇を持て余していたとする説もあるが) 金字塔ともいえる『経営者の役割』を執筆したのである。そのせいか、細部を見ていくと明らかに矛盾や錯誤としか思えないものが多く見られ、何か文章を補って読まないと理解できない部分もある。つまり、原著を忠実に追って行くと、解説が論理的に一貫したものにならなくなってしまうのである。

 こうした事情もあって、『経営者の役割』は、難解さにおいて学界でも特に有名なわけだが、この『経営者の役割』の主張のエッセンスを力の及ぶ限り平易にアレンジして、エッセンスを翻案した現代風エピソードを中心にすえて書いたのが、 高橋伸夫(2007)『コア・テキスト 経営学入門』(ライブラリ 経営学コア・テキスト 1) 新世社 である。

 かつて『経営者の役割』にチャレンジして、挫折した経験のある読者には、にわかには信じがたいかもしれないが、現代風エピソードでお話が進んでいく『コア・テキスト 経営学入門』の各章末にある「第●章のまとめ」は、実は原著『経営者の役割』の「第●章のまとめ」になっており、バーナードの『経営者の役割』の最終章「第18章 結論」を除いた各章、すなわち序、第1章〜第17章に対応して、忠実に『コア・テキスト 経営学入門』の序、第1章〜第17章が執筆されている。4部構成の編成もまったく同じである。

 ただし、バーナード以降の学問的発展 (その萌芽が『経営者の役割』にあったという事実に読者の多くは驚くはずである) に関することや『経営者の役割』の細部の疑問点等については、『コア・テキスト 経営学入門』の巻末に「付録:読解のための注釈」(pp.259-272) としてまとめている。ここにその抄録を掲載するが、これはどちらかといえば上級者向けの概念「目録」のようなもので、初学者が読んで理解するためのものではない。『経営者の役割』の内容を理解しようと思ったら、『コア・テキスト 経営学入門』を読んで、身近な現代風エピソードに抽象的概念を落とし込みながら肌感覚で理解するのが一番近道である。


付録:読解のための注釈 (抄録)

【注】邦訳『経営者の役割』には、原著のページが括弧つきで表示されているので、ここでは煩雑さを避けるために、引用はすべて原著のページで表示している。

第1部 協働体系に関する予備的考察

 第1部の始まる前にある「序」も第1部「第1章 緒論」も、どちらも導入部であり、特に注釈はない。

第2章 個人と組織

 この章では、バーナードは、人間の特性として物的 (physical)・生物的 (biological)・社会的 (social) 要因を挙げている。ただし、物的・生物的要因と社会的要因との間の差異に比べると、物的要因と生物的要因の差異ははるかに小さく、線引きも難しくなる。実際「たとえ物的要因が生物的要因から区別されようとも、それらは、特定な有機体(organisms)の中では不可分 (not separable) である。」(p.11) とされている。両者を無理に線引きする必要はなく、むしろ非社会的要因の例示として物的要因、生物的要因があるとした方が無用な混乱を避けられるだろう。本書ではそうしている。
 それに対して、社会的要因はかなり異質である。バーナードの社会的要因の定義「二つの人間有機体間の相互反応は、適応的行動の意図と意味に対する一連の応答である。この相互作用に特有な要因を『社会的要因』と名づけ、その関係を『社会的関係』と呼ぶ。」(p.11) は、後世有力となるワイクの組織化の概念にもつながる定義で、先駆的である。

 ところで、pp.13-14に人間の選択力についての重要な記述があるが、ここでのバーナードの記述はまったくの言葉足らずである。この部分の記述の真意が分かるのは第4章になってからで、第2章の議論を整理したくだりで、「個人には、限られてはいるが、重要な選択力があるものと考えた。」(p.38)とあり、実は後になってサイモンが「限定された合理性」(bounded rationality) あるいは「合理性の限界」(limits of rationality) と呼んだアイデアと同様のことを意図していたらしいことが推察される。ただし「選択力に限界があるために、選択の可能性を限定する必要がある」という一文がどこにも書かれなかったために、この第2章の読解は難解を極めることになる。試しに、この理解をもとにして第2章のpp.13-14を読み返せば、どうして「意思決定の過程は主として選択を狭める技術である」(p.14) という結論に到達するのかが理解できるであろう。ちなみに、サイモン同様にバーナードも、その「選択を狭める技術」の一つが組織だと考えていたことは、これ以降の議論の展開で明らかになる。

第3章 協働体系における物的および生物的制約

 この章でのバーナードの議論は、第2章の話から引き継いで理解しようとすると、用語が錯綜しているので注意がいる。前の第2章で、バーナードは人間の特性として物的・生物的・社会的要因を挙げていて、この第3章では物的・生物的要因、第4章では社会的要因を取り上げるという構成になっている。ところが、この第3章では、物的要因はもっぱら「環境の物的要因」を意味し、生物的要因は「人間の生物的特性」を意味するようになる (p.24)。つまり本書でいう「能力」=生物的要因、「問題状況」=物的要因という対応関係が暗黙の前提となっているのである。これは明らかな用語法上の混乱である。このような用語の転用は読者の誤解をまねく。そこで、本書の第3章では、こうした混乱を避けるため、あえてバーナードの生物的要因、物的要因という用語は使わず (つまり、この二つの用語については第2章の意味だけにとどめておいて)、新しいラベル「能力」「問題状況」を使って分類することにした。バーナードもこのようにすべきであった。

 そのため、協働の可能性のない第一の経路 (Series 1, p.25) では「物的制約の識別」しか出てこなくなる。この暗黙の前提を理解すれば、第二の経路 (Series 2, p.25) で、a. 物的制約の識別、b. 生物的制約の識別、c. 協働的制約の認識、d. 協働行為によって克服さるべき物的制約、と並べられる意味が分かる。すなわち、第二の経路は次のように解釈されるべきであろう。

  1. 物的制約の識別……第一の経路と同じもの ただし、ここでは最初のステップを構成している
  2. 生物的制約の識別……個人の能力の限界を知ること
  3. 協働的制約の認識……協働したときに、個人の能力を超えて能力を高められることを知ること
  4. 協働行為によって克服さるべき物的制約

 そして、第1部のまとめの章である第5章の第2節で、制約に関する議論がまとめられているように、「制約は全体状況すなわち諸要因の組合せ (combination) から生ずる」(p.50; 邦訳では combination は「結合」と訳されているが、ここでは「組合せ」とした方が理解がしやすい)のである。つまり、制約というのは、積み上げた積み木のようなものであり、うまいことどれか一つの積み木を外せば、積み木の山全体がつぶれる(=制約が解消する)可能性もあるのである。もちろん、一つ一つ積み木を取り除いていくというやり方もあるが。

 また、この第3章では社会的要因を扱わないということをp.23、p.25、p.36と3度繰り返して強調しているが、第U節以降、バーナードは協働の維持の議論を始めてしまうので、必然的に能率や社会的要因の話が入ってきてしまう。これでは一貫性がない。第U節以降の記述は、この章では無視すべきであろう。

 ちなみに「能力」「問題状況」を使って分類すると、この第3章での両者のバランスの議論が、後のゴミ箱モデル的なアイデアに相似していたことが分かる。

第4章 協働体系における心理的および社会的要因

 この章はたったの8ページしかない。ところが内容がこなれていない上に、無茶苦茶に言葉足らず (=説明不足) で、実に難解である。後の近代組織論で編み出されたいくつかの概念やアイデアで補ってやらないと理解すること自体が困難である。逆に言えば、バーナードの概念体系が未熟で、そこまでの完成度には達していなかったともいえる。

 バーナードの第4章での議論の形式的な位置づけは、前章第3章では「心理的要因ならびに社会的要因を除外して協働体系を論じてきた」(p.38) ので、第4章では第3章で除外していた心理的要因と社会的要因を議論しようというものである。ただし、ここで問題なのは、もともと第2章で人間の特性として挙げていたのは物的・生物的・社会的要因の三つであり、第3章でも社会的要因を除外すると3回言明しているのにもかかわらず、この第4章にきて、タイトルと冒頭でいきなり四つ目の心理的要因が加わってしまっているように外形的に見えてしまうことである。

 実は、心理的要因自体は初めてここで登場したわけではない。バーナード自身が第4章の冒頭で定義を再掲している部分 (p.38) にも明示されているように、第2章において既に登場している。しかしそれは四つ目の「要因」としてではなかった。「いわゆる個人の行動は心理的要因の結果である。『心理的要因』という言葉は、個人の経歴を決定し、さらに現在の環境との関連から個人の現状を決定している物的、生物的、社会的要因の結合物、合成物、残基を意味する。」(p.13) こんなところで「要因」という言葉を使うこと自体が紛らわしくて混乱を招くのだが、おそらくバーナード自身も混乱して整理がついていなかったのであろう。

 この「心理的要因」の定義の意味するところは、この直後に、さらに第2章の議論を整理したくだりで、「個人には、限られてはいるが重要な選択力があるものと考えた。」(p.38) とあることで、ある程度謎が解ける。つまり第2章の注釈の部分にも書いたが、「選択力に限界があるために、選択の可能性を限定する必要がある」という一文を付加すれば、後になってサイモンが「限定された合理性」あるいは「合理性の限界」と呼んだアイデアと同等のものといっていい。

 こうした理解をもとにして第2章・第4章を読み解けば、バーナードが心理的要因と呼んでいたものは、後にマーチとサイモンが「状況定義」と呼ぶことになる概念と基本的に同じものであることに気がつく。バーナードがいうところの物的・生物的・社会的要因の三つの人間の特性が結びついて、心の中に残ったものなのである。これが選択の可能性を限定しているからこそ、選択力に限界があっても、人間は選択をすることができるのである。そして、サイモンらと同様にバーナードも、その「選択を狭める技術」の一つが組織だと考えていた。つまり心理的要因とは第4の要因なのではなく、組織の参加者の心の中に形成されて残っている「選択の可能性を限定」した選択モデルなのである。

 またp.40とp.42で繰り返して、(a) 人間を制御可能な客体とみなす考え方、(b) 人間は自ら欲求を満たすべき主体とみなす考え方があると述べられる。これはバーナードの体系の中では、それぞれ (a) が第12章「権威の理論」、(b) が第11章「誘因の経済」への伏線となっているわけだが (p.42, 脚注2)、後に内発的動機づけの理論で Deci (1975)が展開している考え方とも符合している。その意味では動機づけの理論の枠組みとして先駆的である。

第5章 協働行為の諸原則

 第4章のタイトルと冒頭で物的・生物的・社会的要因の三つに加えていきなり四つ目の心理的要因が加わっていたのと同様に、この第5章の冒頭の文章では、今度は「心理的」に代わって「物的、生物的、個人的および社会的な諸要素や諸要因が、一つでも欠けているような協働体系はない。」と「個人的」要因が加わっている。実は第6章の冒頭の文章でも同様である。バーナードのこうしたルーズな用語法は読者を混乱させるだけである。また第1節の四つの例証は、組織の例証ではない上に、「欠けている」ことを記述するために差別的な表現や内容を含み、不適切。

 この第5章は第T部の最後の章ということで、前の諸章をまとめる章という位置づけらしいが、能率と有効性だけに絞った方が、説明が分かりやすかったのではないだろうか。たとえば、確かに第3章で制約の話をしていたので、第2節で物的・生物的・社会的要因の組み合わせで制約が生じるという話をしたくなる気持ちは分からなくはないが、第2節の前半でストーリーが錯綜する原因となっている。少なくとも第5章のタイトルのように「協働行為の諸原則」に整理するのが目的であれば、不要である。

第2部 公式組織の理論と構造

第6章 公式組織の定義

 この章は、具体的な組織から、共通している組織像を抽出し、それを公式組織として定義するための章である。バーナードの公式組織の有名な定義は「二人以上の人々の意識的に調整された活動や諸力のシステム」(p.73) である。ただし、この「人々」は、通常、組織のメンバーと呼ばれる人々だけではなく、顧客、部品・原材料の供給業者、出資者 (pp.75-77)、今日的にいえば「ステークホルダー」(stakeholder; 利害関係者) まで含めた広い概念なので、本書では最初から「人々」を「参加者」と読み替えている。バーナード自身は「貢献者」(contributor) と呼んでいたが、後のサイモンに倣い「参加者」(participant) とした。

 組織のすべてのサブシステムに共通し、これら他のすべてのサブシステムを全体の具体的な協働的状況に結合するものが公式組織なのである (pp.73-74)。バーナードは、この公式組織を組織現象を説明するための「構成概念」だと位置づけている (p.75)。ここで構成概念とは、その存在を仮定することによって複雑な現象が比較的単純に理解されることを目的として構成する概念である(「構成概念」(construct) は、邦訳では「概念的な構成体」と訳されているが誤訳)。したがって少なくともこの段階では、公式組織は人の集団のような何らかの実体を指しているのではなく、この公式組織が存在するということ自体が、バーナードの「中心的仮説」(p.73) なのである。そして、公式組織が成立・存続することは、組織がシステムとして維持されることを意味している。

第7章 公式組織の理論

 この章では、タイトルにも入っている「公式組織」という用語が、なぜかほとんど使われず、代わりに「組織」が用いられる。「公式組織」が登場するのはわずか4回、しかも pp.84-85 の狭い範囲に限られ、そこには「公式的協働体系」なる用語まで出現する。これらが修正エラーであり、この章の「組織」が「公式組織」を指していることは間違いないので(ただし、後述するように pp.84-85 だけは例外である)、本書では一貫して「公式組織」で統一した。しかし、章の冒頭が、いきなり公式組織の成立条件から始まる書き方といい、この第7章の完成度は草稿の域を出ていないのではないかと思われる。にもかかわらず、内容的にはきわめて重要な章であり、バーナード理論の中核を形成している。

 もっとも、公式組織の成立条件、存続条件ともに、一つの例外を除けば、これまでの章で何度となく登場しており、この章では、既に登場し考察してきた諸条件を成立条件、存続条件の形でまとめたといった方が正しいのかもしれない。その一つの例外とは、章の冒頭で成立条件の最初に挙げられているコミュニケーションである。そのせいか、説明する順番は、A貢献意欲、B共通目的、@コミュニケーションとコミュニケーションの解説が最後に簡単に行われている。またその解説の中身も、脚注まで含め “observable feeling”(翻訳では「以心伝心」と訳されている) というバーナードの造語 (p.90 脚注5) について多くを割いていることも興味深い。その意を汲んで、本書でも「以心伝心」の解説を重視した。

 ただし公式組織成立の3条件について、章の冒頭で3条件に整理した際には (p.82)、「貢献意欲」(willingness to serve) であったものが、項のタイトルでは「協働意欲」(willingness to cooperate) に (p.83)、「共通目的」(common purpose) はただの「目的」(purpose) になってしまっているので注意がいる (p.86)。ここらへんでも完成度の低さを感じさせる。

 ところで、前述の「公式組織」が登場するpp.84-85は、「組織」=公式組織、だと思って読んでいると理解不能になる部分でもある。すなわち「組織への潜在的貢献者と考えられるすべての人々を貢献意欲の順に配列すれば、その範囲は、強い意欲をもつ者から、中立的すなわちゼロの意欲を経て、強い反対意思、すなわち反抗とか憎悪にまでわたっている。なんらか特定の現存組織や将来成立しそうな組織について言えば、現代社会における多数の人々はつねにマイナスの側にいる。したがって貢献者となりうる人々のうちでも、実際にはほんの少数の者だけが積極的意欲をもつにすぎない。このことは、大きな国家、カトリック教会などのような、いかに大きな、またいかに包括的な公式組織についても妥当する。」(p.84)

 実は、次の第8章第1節で、国家や教会は、それをサブシステムとして包含する公式組織がもはやないという意味で最上位の公式組織「完全組織」「最高組織」と呼ばれている。つまり、バーナードは国家が公式組織だと考えているのである。そのことをふまえて、前述の pp.84-85 の部分を読み直すと、要するに、この第7章のここの部分でのみ、「組織」=協働体系、「公式組織」=公式組織として使い分けられており、「大きな国民社会」(第8章第1節の冒頭) という協働システムと、それを組織として維持している国家という公式組織という対比をバーナードが行っていたと理解した方がわかりやすい。これは、マートンの逸脱的行動の分析にもつながる興味深い分析である。

第8章 複合公式組織の構造

 この章では、第1節は、国家や教会のように、それをサブシステムとして包含する公式組織がもはやないという意味で最上位の公式組織「完全組織」「最高組織」の話が中心になっているが、この章の後半とのつながりがよく分からない。この章の中心は、後半の第2節・第3節で、単位組織から複合組織が作られると主張されているのだが、単位組織 (unit organization) を表す用語として単純組織 (simple organization) や基本組織 (basic organization) なども登場し、紛らわしい。この本では、単位組織に用語を統一している。

第9章 非公式組織およびその公式組織との関係

 この章では、「非公式組織」が論じられる。第6章で、唐突に公式組織が定義され登場したが、なぜバーナードが構成概念としての組織に公式組織という名前を与えたのかは、この章で想像がつくことになる。

 実は、バーナードが公式組織 (formal organization) という用語を使い始める前に、既に1930年代には「非公式組織」(informal organization) という用語が使われていたのである。それはバーナードとも近いハーバード大学の人間関係論の論者たち (p.121 脚注5) によってであり、通常の用語法通りに、「公式ではない非公式の組織」というほどの意味であった。文字通りの「非公式組織」だったのであり、構成概念でしかない公式組織とは異なり、具体的に観察可能な人間の集団を指していた。

 にもかかわらず、バーナードはこの章で、そんな俗っぽい「非公式組織」と対峙させながら構成概念としての公式組織を取り上げてしまったので、せっかくの公式組織の概念が、第6章の定義から脱線し始める。「公式組織の過程から直接生ずる公式制度と、非公式組織の過程から生ずる非公式制度」(p.116) に至っては何をかいわんやで、第6章・第7章で苦労して練り上げた公式組織の概念が、これでは台無しである。論理的な思考を行う読者を混乱に陥れるだけで、この章は書くべきではなかった。(公式組織の名前の由来だけにとどめておけばよかったのに。) 要するに、バーナードの公式組織の概念と人間関係論の「非公式組織」の概念とは排反な関係にはなく、一部オーバーラップしているのである。つまり、非・公式組織≠「非公式組織」

 実際、第1章でもまとめたように、バーナードが、せいぜい数時間の短命で名前もないような組織が無数にある (p.4) と記述する際、そのほとんどは公式のものであるはずもなく、「非公式組織」だと考えるべきだが、バーナードの定義によれば、そこにも公式組織の成立を主張するのである。本来、「公式組織」は別の名称を考えるべきだったのだろう。

第3部 公式組織の諸要素

第10章 専門化の基礎と種類

 この章での専門化の議論は、後のサイモンらの議論と比べるとまだ稚拙である。最後の私見(原著では a final observation)として述べられている「複合組織におけるあらゆる単位組織は一つの専門化であるから、複合組織の一般目的は組織の各単位に対する特定目的に分割されねばならない。」(p.137) は複合組織の構造を理解する上で、重要である。

第11章 誘因の経済

 この章は、いわゆるワーク・モチベーションに関する章である。後に組織行動論の分野で開花することになる諸理論の萌芽を見て取ることができて興味深い。金銭的・物質的誘因が当時、非常に強調されていたが、これらは生理的に必要な水準を超えてしまえば弱い誘因にしかならず、それでも最も効果的だと考えるのは幻想 (illusion) であり、他の動機の力を借りる必要があるという主張 (pp.143-144)、そして他の動機として威信、パワー、昇進 (p.145)、誇りなど (p.146) を挙げていることは実に興味深い。ただし「生理的に必要な」という部分を強調すると、後のマズローの欲求段階説を連想させるが、マズローの主張には科学的根拠がないという結論が出ているので注意がいる。

第12章 権威の理論

 この章では、権威あるいは権限(どちらも英語では authority)が扱われている。バーナードが主張し、後にサイモンらによって継承された考え方は権限受容説と呼ばれ、「一つの命令が権威をもつかどうかの意思決定は受令者の側にあり、権威者すなわち発令者の側にあるのではない」(p.163) と考えるのである。

 なお、翻訳では zone of indifference のことを「無関心圏」と訳しているが、これは誤訳である。実際、「命令がAまたはB、CまたはDなど、どこへ行けというものでもあっても、それは indifference な事である。したがって、A、B、C、Dその他の地方へ行くということは zone of indifference の中にある。」(p.169) という用法を見ても、indifference は経済学で普通に使う「無差別」の意味で用いられており、zone of indifference も「無差別圏」と訳すべきである。

 この無差別圏のアイデアはSimon (1947)にも受諾圏 (zone of acceptance または area of acceptance) として受け継がれている。また、そもそも無差別圏がいつ設定されるのかということに対して、バーナードは「このような命令は組織と関係を持ったとき、既に当初から一般に予期された範囲内にある。」(p.169)としているが、これは後にThompson (1967)によって心理的契約と呼ばれるようになる。

第13章 意思決定の環境

 この章では、組織の中での意思決定の過程・連鎖が扱われている。後に、サイモンが展開する意思決定を中心にした組織論の萌芽ともいえる考え方、概念が随所に散見されて興味深い。

 まず冒頭で、個人の行為をプログラム化されたものとされていないものに分けて、プログラム化されていない行為に先行する過程は最後に「意思決定」と名づけうるものに帰着するとしている(p.185)。ただし、プログラムという概念が使われるようになるのはMarch & Simon (1958)以降、さらに「プログラム化された」という概念が使われるようになるのはSimon (1960)以降である。

 次に、バーナードは意思決定を2種類に分類し、一つは「個人的意思決定」(personal decisions) 、もう一つを「組織的意思決定」(organization decisions) と呼んでいる (pp.187-188)。しかし、これはかなり誤解を招く用語法である。なぜなら、意思決定を行うのが個人か組織かが、この分類に決定的に重要ではないからである。正確に言えば、バーナードのいう「組織的意思決定」は個人が一人で行っていてもかまわないもので、組織的意思決定のプロセスの一部がしばしば委譲されうるという性格を指しているにすぎない。

 それに対して、「個人的意思決定」は、個人が組織に貢献するかどうかの意思決定であり(p.187)、通常は他人には委譲し得ない (p.188) ということから「個人的」なのである。つまり正確には March & Simon (1958) が「参加の決定」と呼んだものに相当している。その観点から考えれば、「組織的意思決定」は March & Simon (1958)の「生産の決定」に対応していると考えた方が分かりやすい。この第13章の最後で、バーナードは「組織の中の意思決定の過程」を社会的過程、「個人の中の意思決定の過程」を社会的に条件付けられた心理的過程としていることが、そのことをよく表している (pp.198-199)。実は、March & Simon (1958)の生産の決定の定義では、参加の決定との違いが生じなくなるという欠点があるのだが、改善してより生産性を向上させるというような現象を扱うためには、バーナードの組織的意思決定のアイデアを取り入れて、「合理的に・より効率的に生産するために組織的に行われる生産の決定」とした方がよい。

 また、新しい意思決定が行われるときには、以前の条件下での以前の意思決定の結果は、既に客観的事実となっていて、新しい意思決定の一要素として扱われる (p.195) といったように、バーナードが、既に意思決定連鎖のようなものを考えていたことも注目される。後にSimon (1947)が意思決定前提 (decisional premise) と呼ぶものは、補助決定 (subsidiary decision) と呼ばれていた (p.188)。

第14章 機会主義の理論

 この章は、「第17章 管理責任の性質」が組織の道徳的要因を扱うのに対して、その反対物として機会主義的要因を取り扱う(p.201)。Williamson (1975)以降、機会主義的行動といったときには、それはしばしば、機に乗じて自分に有利に運ぶように行動することを意味し、あまり良い意味では使われないことが多い。この章の場合にも、道徳的要因の反対物であるとしているために、そのような印象を与える。しかし実際には、いわゆる機会主義的行動とはほとんど無縁の議論が続く。実は、この第14章は、前の第13章の裏づけとなっている章なのである。

 バーナードの意味する道徳的要因とは、組織の未来に関係した見通し (foresight) であり (p.201)、理路整然とした目的・手段連鎖を規定する管理職能において重要視されるものであるが、それに対して、環境に直面する現場では組織の機会主義的要因が重要視される (pp.210-211)。前の第13章で取り上げられた意思決定の連鎖のようなものは、実は、目的・手段連鎖に対応する演繹的なものではない。この章で述べるように、機会主義的に、次から次へと戦略的要因を探索して意思決定していくことから連鎖が生まれるのである。

第4部 協働体系における組織の機能

第15章 管理職能

第16章 管理過程

 第7章で挙げられていた公式組織の成立3条件と存続2要件のうち、「第15章 管理職能」では公式組織成立の3条件、次の「第16章 管理過程」では公式組織存続の2要件が議論される構成になっている。どちらも『経営者の役割』のまとめというか復習である。

第17章 管理責任の性質

 この章では、「第14章 機会主義の理論」で予告されていたように、道徳的要因や見通し (foresight) が扱われる。バーナードによれば、この本の中で「協働の道徳的側面をできるだけ避けてきた」(p.258) ので、この実質的な最終章で「リーダーシップと管理責任の道徳的側面に論点を集中して、組織における道徳的要因を考察しよう」(p.260) というわけである。

 この章の最初と最後に書いてあることを抜粋すれば、この章の意図は比較的明快である(ただし、途中に書いてあることは雑多な記述の寄せ集めにしか読めない)。すなわち、リーダーシップの「決断力、不屈の精神、耐久力、および勇気における個人的優越性の側面」(p.260) に考察が限定される。「それは行為の質を決定するものであり、人がどんなことをしないか、すなわちどんなことを差し控えるかという事実から、最もよく推察されるものであり、尊敬と崇拝を集めるものである。われわれが普通に『責任』という言葉に含めるリーダーシップの側面であり、人の行動に信頼性と決断力を与え、目的に先見性と理想性を与える性質である。」(p.260)

 こうして、リーダーシップによって、成功するだろうという信念等が作り出されることで、協働的な個人的意思決定が鼓舞される (p.259)。「組織の存続はリーダーシップの質 (quality: 翻訳では「良否」と訳されている) に依存し、その質は、それの基礎にある道徳性の広さ (breadth: 翻訳では「高さ」と訳されている) に由来する」(p.282)のである。

第18章 結論

 この章は、16箇条の要約 (pp.285-289) と難解な結論からなっている。このうち要約については、16箇条という数字から、第1章のイントロダクションを除いた第2章〜第17章の16の章のそれぞれに対応して1箇条ずつ書かれている、と思いきや、実は対応関係がない。しかも、書かれているのは要約というより、コメントなので注意が要る。この期に及んで、ようやくバーナードが何を考えていたのかがはっきりするコメントがいくつもあって面白い一方で、たとえば公式組織は(5)で抽象的概念であるといっておきながら、(6)ではその公式組織の中に (具体的な) 非公式組織が見出されるとしているなど、混乱している記述もあり、本書では、この章自体を取り上げなかった。



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